青花紙の作り方~苦労の末に出来た青花紙は高い値段で取引されました

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あおばなの花弁には、青色色素コンメリニンが含まれています。この色を落とそうと思えば簡単に、しかもきれいに跡を残さず落ちる性質があります。このような特殊な性質を利用して、友禅染や絞染の下絵が描かれてきました。ただし、花弁からしぼりだした色素を液体のままおいておくと変質してしまいます。そこで色素を保存するために、和紙にしみこませ乾燥させるという加工方法が生み出されました。こうしてできた製品が青花紙です。

青花紙の作り方

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草津市の農家では、あおばなの栽培と青花紙の加工が行われています。農家は毎年2月頃に種をまき、苗を育てて畑に植えます。7月中旬から8月上旬にかけてあおばなは開花します。この1年のうち一番暑い時期に、毎日午前中に畑に咲いたあおばなの花弁をすべて手で摘み取って収穫します。早朝の5時ごろからあおばなは咲きはじめ、昼頃にはしぼんでしまうため、咲いている間に花粉やサギといわれるメシベやオシベがつかないように、花びらだけを手作業で1枚1枚集めます。

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そして、午後に花弁から青色色素の液体をしぼりだします。摘みとった花は両手の指で何回も揉むと青い汁が出てきます。厚手の布に包んで絞り、また揉んで絞るということを繰り返します。花粉やサギが混じると品質を大きく落とします。

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たまった青花液はハケで美濃紙に染み込ませます。青花紙の加工には専門の技術が必要です。その技術を継承している女性が、すべて手作業で加工にあたっています。1枚が34×25cmの大きさで、96枚1束の美濃紙を4枚ずつに分けて12組(48枚)作り、これを単位として表裏を染めていきます。染めた紙は天日乾燥させます。雨にあたるとすべて流れ落ちるので夕立に気を付け、染めては干すという作業を70~80回繰り返します。

朝摘んだ花はその日に絞り、花汁はその日のうちに染めてしまわないと美しく仕上がりません。花は毎日咲きますから全く休みはなく「もうやめたい」と何度も思うので、地獄花とも呼ばれました。

1束の青花紙には乾燥重量にして約300グラム分の青色色素が含まれており、こうして苦労の末に出来た青花紙は高い値段で取引されました。

農家から出荷された青花紙は仲買人をへて、京都市や金沢市にある染織材料の小売店に卸されます。そして、京友禅、加賀友禅、名古屋友禅などの友禅染や京鹿の子絞、有松鳴海絞などの絞染の下絵職人のもとに届けられます。

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友禅染の下絵職人は、数センチ角に切り分けた青花紙を小皿に入れ、水滴をたらして青色色素を戻してから、筆に含ませて下絵を描きます。絞染の場合は、型紙を使って、生地に糸でくくる位置に点をしるします。青花紙で描いた下絵は、消したいときには完全に消せますが、消したくないときには一年以上安定的に残ります。

近年では、安価な化学合成品「化学青花」で代用される例が増えていますが、その性質は天然の青花紙の性質には及びません。このため、仕上げの美しさを重視する手書きの友禅や、くくるのに一年以上かかる総絞りの制作には青花紙が用いられてきたのです。さらに、あおばなの青色色素は、江戸時代、浮世絵版画の絵具として用いられていたことも分かっています。

青花紙の歴史

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青花紙を近江の特産品として最初に記した文献は忠松江頭の『毛吹草』(1638年)です。また、膳所藩の地誌事典『近江輿地志略』(1734年)にも、栗太郡の産物として記録されています。いっぽう、あおばなを植物学的に確認できる最古の文献は、平賀源内の『物類晶鴎』(1763年)です。つまり、17、18世紀にはすでに、膳所藩とその周辺で、あおばなを栽培し、青花紙を出荷することがおこなわれていたのです。

膳所藩には東海道と中山道の分岐点である草津宿があり、あ置の要所でした。街道を行き来する旅人が、あおばなの畑や、青花紙の加工風景に目を留めることもあったのでしょう。秋里離島『東海道名所図会』(1797年)や、安藤広重『人物東海道五十三次』(1852年)などに画題としてとりあげられ、草津宿の名物として全国に紹介されています。

あおばなは、日本を代表する染織文化を支えてきた、いわば「縁の下の力持ち」の有用植物です。絵画のように精密で、さまざまな色彩を使った友禅染の模様は、青花紙の下絵がなければ表現することはできません。このような特殊な需要に支えられた結果、青花紙は300年以上も出荷が続く、ロングセラーの特産品となったのです。

また、草津市の農家では、あおばなを栽培し、青花紙に加工する作業が続けられていますが、その手順や使用される道具類は、江戸時代や明治時代の記録とほぼ同じ状態です。つまり、農家のみなさんが継承しておられる加工技術にも、高い文化的価値があります。

これまで、なぜあおばなを食品として食べてこなかったのでしようか。

農家のみなさんは、花弁から青色色素をとり青紙をつくる目的で、あおばなを栽培してきました。より大きく、色の濃い花をたくさん収穫するため、施肥や水やりに工夫をとらし、注意深くアオバナを育てます。ですから、それを食品として食べることは、論外であったと思います。

現在、あおばなを食品として利用できるのは、江戸時代以降ずっとあおばなの栽培を続けてこられた農家のみなさんのおかげなのです。あおばなを食品として食べる時には、そのことをぜひ思い出していただきたいです。

あおぱなの民話「きよと黒い粒」

琵琶湖の南の木川村に、きよという娘がいて、病気の母と住んでいた。百姓の手伝いや子守をして、少しのお金で暮らしていたが、暮らしはちょっとも楽にはならんかった。そんなある夜、夢の中に観音様が現れ、

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「草津川の一本松まで行って見なさい。お米が木箱に入っています。食べる分だけお米を持って帰りなさい。」と言われ、朝になって一本松まで行くと「ほんまや、観音様のいわはったとおりお米がある。これで、病気の母においしいおかゆをつくってやれる。」観音様にお礼をいうて、両手にひとすくいのお米をもろうてかえった。毎日、毎日…

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それから30日ほどたったある朝、一本松の米びつには、まだ一杯ある。まとめて貰うのも同じと思い、きよは袋にいっぱいお米を持って帰った。次の朝になってむなさわぎがするので、一本松まで行ってみると、米びつの中には黒いつぶが入っていた。きよは後悔したけれどもうおそかった。

「観音様、かんにんしてください。わたしがわるうございました。毎日、おいしいお米をもらいながら、欲の深い心をだしてしもて、おゆるしください。」次の日から、きよは心をいれかえてよく働き、村の人を助けた。しかし、いくら働いてもきよの心は、はれんかった。ある夜、きよの夢の中に観音様が現れた。

「きよ、よく聞きなさい。おまえが欲深い心をだしたので、お米を黒いつぶにかえたのだ。黒いつぶは、花の種だから畑にまきなさい。夏になると青い花が咲くから、その花を摘んで汁を紙にしみこませるといい。それがきっと役に立つ。」

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夏になると青い花が咲き、花を摘み、紙に汁をしみこませた。秋になったある日、京の友禅問屋が訪ねてきた。友禅問屋の人は、高い値段で買うていった。そのお金で薬を買い、母はすこしずつ元気になっていった。

やがて、このへんの村では青花の紙がさかんにつくられるようになった。

こうして、青花からとった青花紙は、近江の国の特産物にまでなりました。